『狐に化けた老剣士』

宝暦末年の頃、江戸四ツ谷新宿に剣術道場を開いている岩田郷祖軒という老剣士がいた。
剣術の腕は立ったが、本を読んで学ぶということもなく、高慢な性格で思いやりの無い人柄であったので、人に好かれず弟子も少なかった。


あるとき用事があって本所の近辺まで行き、その帰りに柳原の床見世を覗きながら歩いていると、狐の尻尾を売っているのを見つけた。
郷祖軒はこれは寒気をしのぐ襟巻にもってこいだと買い求め、着物のたもとに入れて帰路についた。


筋違橋まで来たところでかなり疲労を感じたので、ちょうど客待ちをしていた駕籠に乗ることにした。
時刻はそろそろ黄昏どき。遠出の疲労もあり、郷祖軒は駕籠の中でウトウトと居眠りをしてしまった。
ふと気づくと駕籠の外から駕籠かき二人の会話が聞こえてきた。
後で駕籠をかつぐ男「おい見てみろよ。」
前で駕籠をかつぐ男「(言われて振り返ったらしい気配がする)ああ、なるほど…」


郷祖軒が駕籠の中で何のことだろうと思いめぐらしていると、ふと気付いたことがあった。
帰り道に買い求めた狐の尻尾が着物からずり落ちて、駕籠の外にちょこんとはみ出ていたのだ。
駕籠かきの二人はそれを見て、さっき乗せた駕籠の客は狐が化けたものだと思い込んで怖がっているのに違いない。
そう察した郷祖軒は狐の尻尾をわさわさと動かしたり駕籠から出したり引込めたり…ということをやり始めた。


駕籠かきたちは何やら小声で言い交わしながら怖がっている様子だったが、遂に堪りかねて郷祖軒に声をかけてきた。
「自分たちは遠方に住んでいる者で、帰りが遅くなってしまいますので、どうかこの辺で勘弁してもらえませんか。お代は御心のままに幾らでも結構ですから」


そう言われた駕籠の中の郷祖軒はこう返した。
「お前たちの事情は分かったが、わしの住まいは前に言ったように新宿の三光院稲荷の近く。あと少しの道のりじゃ。早いところ行ってくれ」
駕籠かきたちはそれを聞いてさらに怖がって、どうかここまでで勘弁してくれと泣きながら訴えた。


郷祖軒は駕籠から降り、
「そこまで言うのならばここで降りて、あとは歩いていくとしよう。ところで駕籠の代金の三百銅だが、ここで払うのは簡単だが、
お前たち二人の実直さに感心したからもっと良い物をやるとしよう」
そう言って、あらかじめ駕籠の中で作っておいた十二銅ずつ入った二つの包みを取り出した。
「この包みの中身の鳥目は僅か十二銅であるが、金が必要になったらこの十二銅のうち、十一銅だけを取り出して使うようにせよ。
一晩経てば包みの中身は元の十二銅に増えて元通りになり、これを繰り返せば泉のごとくいつまでも金が湧き出るというわけじゃ。
今後もよく信心すれば遠からず富貴を授けてやるぞ」
郷祖軒はまるで狐が人語を言うように早口で一気に言い述べた。
駕籠かきの二人は地面に平伏して金包みを押し頂き礼を述べ、郷祖軒を三拝すると、
駕籠を担ぎ上げて足早にその場から逃げていってしまった。郷祖軒は一人で笑いながら家まで歩いて帰った。


郷祖軒はこの一部始終を家族や近所の知り合いになどに吹聴して回った。
「こういうわけで、狐だと勘違いして怖がったところにつけこんで騙してやった。たったの二十四銅という安い駕籠に乗れたとは運が良い。
それにしても、わしのことを殿様のように敬っている様子など近来稀に見る珍事であったわ」
そう言って笑い、面白がっていた。


するとその翌日から郷祖軒の様子がおかしくなった。
「その方は常日頃から仁愛の情が薄い奴だが、非義非道の心からとんでもない事をやったな。
僅かばかりの金を稼いで妻子を養うという職業も世には多いが、駕籠かきほど貧しくしかも仕事に伴う苦労が辛いものは他にないと言ってよい。
心ある人ならば誰でも普通に料金を払うほかに『ご苦労様。少ないがこれも取っておいてくれ』と小遣いをやるのが世の道理というものだ。
それなのに貴様という奴は彼らが駕籠の中の客を狐だと思いこんだ恐怖につけこんで騙しおって。不仁不義非道な事この上ない。
人間ではない我らですら物の道理は弁えているものを。おのれ畜生めが。思い知れ」


郷祖軒自身の口から自分を強烈に罵る言葉を喚き散らし、狂乱の態であった。
これは紛れもなく狐が取り憑いた為であろう。
人々は驚き恐れて祈祷などを行ってみたが全く効果が表れなかった。
郷祖軒はまるで廃人のようになり、ただ生きているだけという有様になってしまった。
命は長らえたものの、親族にも見捨てられて、やがて死んでいったという話である。


狐こわい。
こういう怪談でも「駕籠かきという職業は辛いもの」だと一般常識だとされているのが面白い。
そういえば人力車の車夫も非常にしんどい仕事だという話があったなー。
馴染みの車夫に小遣いをやって
「人力車を使って帰ったら」
と言ったら、
「いや。わたしは人力車の車夫がどれほど辛いかよく知っております。とても自分が人力車に乗ろうなどという気分にはなれません」
と断られたという。
何の本だったかな……。